
全然更新していない久々のコラム! 今回は取り立ててお役立ちなものではござらぬ、ポエム的な雑記です。モジュラーシンセを楽しむということについて。
モジュラーシンセを、というか音楽をするということについてどういう向き合い方をしているのかは、かなりパーソナルな体験であるように思う。それは例えば……
「モジュラーシンセ?これとこれとこれを買って、こうやって繋ぐとほらこういう音が出て、ほら楽しい。これがモジュラーシンセの楽しみ方なんですよ!」
……みたいなものでは無く、私が今、このモジュラーシンセを楽しんでいるのは、過去にこういう経緯があって、そしてあれがこうなって、そこでモジュラーシンセを知って、今こう楽しんでいるのだーー的な、文脈のある話なことが多いように思われる。
ワタシとモジュラーシンセ
自分、Takazudoについて言えば、高校生の頃からDTMに興味を持ち、テクノミュージックを数珠つなぎのようにあれやこれと関連するものを聴き続けつつ、自分でそれもやってみて、何かしらトラックを作るというのを繰り返していた。これは社会人になって一旦途切れたものの、これを書いている今、自分は42歳であるが、4年前ぐらいからチョイチョイDTMを再開し、そこでソフトからモジュラーシンセを知り、興味を持って買ってみたらドハマりし、なんか自分でも売り出してみるなどし出して今に至るみたいな感じが略歴となる。
そんな今、音楽をやることに対して頂いている考えは、高校の頃DTMをやっていた頃だけでなく、2,3年前とも全く違う。考えが変わっていった要因として大きいのは、やはりシンセを自分で売るというのを始めたという点が大きい。売ると説明する必要があり、必然的に一つ一つのモジュールを深く触るようになり、そして買ってくれた方からも色々と質問を受けたりする。それに対する自分の返答というのは、必然的に私個人のバックグラウンドにそったものにならざるを得ない。
例えば、「TB-303みたいな音を出すにはどういうモジュールが良いですか?」みたいな質問が来れば、私はこれまでにこう言うものを使ってきて、こういうものがあるが、こういう違いがあったんですーーと答えるような。
自分にとっての音楽は、一人でひたすら模倣/探求を繰り返すたぐいの楽しみ方であったが、このようなやりとりや、言ってみればこのように当店で買ってくれる方が、次に何を買って下さっているのかというのを見ているという、その一つの体験を重ねたりすることでも、その一つ一つが考えを変える要素となり、自分自身が変わっていく。また、シンセを売る立場になると、直接的にシンセを作っている方とコミュニケーションすることにもなり、これもまた貴重な体験であると感じる。
このような音楽をやることに対する向き合い方は、そうやってシンセを売り出してから出会った人たちを見ていても、一人一人全く違うように思われる。例えばモジュラーシンセでライブをやりたいという思いがあって始めた人。楽曲制作の延長として、一つインタラクティブな要素を混ぜたくてモジュラーをやる人。気になるモジュールを試しては売ると言うのを繰り返し、いろいろなモジュールを楽しむ人。自分で電気回路を組んで音を作るのを楽しむ人などなどという感じに。
偶然性・アイロニー・連帯
そんな自分がDTMをしていた頃に感じていた悩みとして、良いトラックが作れないというものがあった。だが、これは今ほぼ無くなっているという話を今回は書こうと思う。モジュラーシンセにドハマりしたのもこの考えの変化に大きく影響したが、ここ最近繰り返し読んでいる、リチャード・ローティという哲学者の「偶然性・アイロニー・連帯」という本に出会い、自分の中で確信的なものへと変わった。
自分は特に哲学の教養があるわけでは無いのだが、NHKの100分de名著という番組でこの本が紹介されていたのを見て興味を持ち、かなり分からない部分が多いながらも、Audibleで買って繰り返し聞いたりなどしている。この本の特に第一部第二章、「自己の偶然性」という章の内容。これを聞く度に、クリエイティブに関する発見があるように感じる。
モジュラーシンセは楽器
まずDTMをしていた自分にとって。その3,4年前から始めたとき、せっかくやるならなんかどっかにデモテープ送ってリリースを目指すか!みたいに思い、自分の音楽にあっていそうなところにmp3を送るみたいなのを繰り返していた。
今考えるとかなりアクティブなヤツだなと思うが、結局別にどこかで何か採用されることは無く、そんな中でVCV Rackを触っていたら非常に面白く、これはしかしモノが無いと全然分からないと思い、モジュラーシンセを買ったのが始まりだった。
自分にとってモジュラーシンセにハマる要素となったのは、パラメーターそれぞれをノブやCVでコントロール出来るということだった。細かい話は色々あるが、端的に言えばこれが重要な要素だと思う。なのでモジュラーどう考えれば?と思っている方がいたら伝えたい。モジュラーシンセは、いろんなパラメーターがツマミやCVでいじれるようになっているモノです。そういう楽器なんです。以上。と。
モジュラーシンセに出会う前、自分はアナログなハードウェアはむしろ避けていた。避けていたと言うより、買ってはどうもしっくりこないを繰り返し、ソフトウェア中心で考えていた。そう、だってソフトの方が圧倒的にパワフルに、色々と柔軟にできるし、むしろなんであえてハードウェアに高い金額を払う必要があるんですか?とすら考えていた。例えばAbleton Liveだって、最初から入っているソフトシンセは非常にパワフルで柔軟性も高く、それをMIDIコントローラーに割り当てればなんだってできる。それなのになんでハードを買う必要がある?という感じである。
しかし、モジュラーシンセを触ってみると、「あぁ、自分は何も分かっていなかった」と思ったのだった。この「分かっていなかった」というのは、実際のところ、頭の上では理解していた。それは例えば、サイン波というのはこういう音がして、FMモジュレーションというのはこうなる、ローパスフィルターをかけたらこうなって、うん、イコライザーでこうしたらなんか好きな感じになるとかそういう理解は色々とあったものの、それがなんというか、身体的な体験とは全く切り離されていたーーというのを、モジュラーシンセを買ってから気付かされた感じがしたのだった。
この発見は、自分にとって意外だった。Takazudoの本業はプログラマーみたいなやつなので、言ってみればデジタル至上主義的な考えに寄っていた。だがこのモジュラーシンセを触っての発見というのは、例えば高機能なPhotoshopのようなソフトウェアで絵を描けば、それは色々できるが、鉛筆で紙に書くことで感じる感覚はそこには無いという感覚に近い。おそらく自分は、トラックを作るというよりも、音楽を演奏するーーそれはつまるところ、身体的な動きと結びつけて鳴らすことを楽しみたいーーということを、実はしたかったのか?という考えを持つようになる。
これはむしろ、そういうデジタルな仕事の中で生きているからこそ、逆に新鮮に感じるという側面もあるのかもしれない。例えばブランクパネルやシンセの箱作ってるだけでわりと楽しいみたいなのも、この要素が関係している気がする。
そしてモジュラーシンセは楽器であるということ。これも触るまでは分からないことだった。まぁ、これはモノとしては、楽器というより装置だろう。サイン波を作り、調整したり加工したりする装置。しかし、そのような装置について、なにをどうコントロールできるようにするか?それをパネル上でどのような大きさのノブで操作できるようにするのか?という意匠が加わると、それはもはや装置では無く、楽器になる。色々なモジュールを触ってみると、そのような違いを感じるようになる。
これが面白く、そして組み合わせもほぼ無限。そしていじっているだけで楽しい。アレとアレを組み合わせ手こういうアイデアを試したらどうだろう? この方法は自分の中では外せない。そういったアイデアの組み合わせや経験の蓄積をダイナミックに行使すること、これが自分の中で音楽をすることになった。そう、つまり「良いトラックを作る」というゴールポストは、この時点で、完全にズレたのだった。
ここでひとつ、中間的なまとめとして、モジュラーシンセに興味を持つ人に伝えたいことがあるとすれば、モジュラーシンセはそういう風にいじって楽しむモノですから、自分の興味を持ったものを触っていじってみる。ひとまずそれでいいんじゃ無いでしょうかというところだろうか。初めて買うのであれば、できればシンプルなモジュールを勧めたい。高機能なモノは理解や使いこなしにエネルギーが必要になるから。それは例えばシンプルなオシレーターだったりフィルタの組み合わせで良く、ほらツマミを回すとピッチがぐおんぐおん変わるでしょう?という、その体験が重要だと思う。DAW上でそういうことをあえてやって楽しんだりすることって、そんなに無いでしょう?
フィリップ・ラーキンの詩
えーとなんだっけ、あ、そう、リチャード・ローティの話だった。それを読んだら発見があったんですわってことでした。
先に挙げた「偶然性・アイロニー・連帯」の中で、ローティが、自分が言いたいことを述べるのに役に立つ、丁度良いフィリップ・ラーキンの詩に出会ったと言って紹介しているのが以下の詩。そしてローティはこの詩について突っ込んで解説をする。
そして一度あなたが自らの心を余すこと無く散策してしまったら
あなたが支配するものは積み荷リストと同じぐらいに明白だ
あなたにとって、それ以外に存在していると思えるものは何もない
それが何の得だというのか? ただ、時がたって
私たちのおこないのすべてが生んだ盲目の刻印を、自分で半ば確認することが
その形跡をしっかりと辿るかもしれない。
だけど、私たちの死が始まるあの青ざめた午後に、それがいったい何であったかを告白しても、何の慰めにもならない、
なぜならそんなことは一人の人に一度だけ、
しかも死にゆく者にだけ意味のあることだから(P.53)
これを読み、どう感じられるだろうか。
この中でよくわからん言葉として「盲目の刻印」という言葉が挙げられるかと思うが、これは、自分の運命とか自分の歴史みたいなものだと思って読んで貰えれば良いかと思う。
この詩を読んで自分が感じたのは、クリエイターにとっての創造というのが、どういった意味を持ったものであるか?という問いかけのようなものだった。
ここで言う詩というのを、今は音楽の話をしていたわけだから、音楽。つまりは音楽家にとってどうかという話に置き換えてみたとする。
自らの心を余すこと無く散策してしまったら
と言う部分。これは例えば、自分がどういうジャンルの、どういう部分が好きで、こういう風にすればそういう音が作れる。こういう構成なら自分の好みの曲が作れるーーというのを繰り返し、それを追求しきってしまったらーーとでも考えられようか。
あなたが支配するものは積み荷リストと同じぐらいに明白だ
そうなってしまったら、冷蔵庫に麦茶とレタスと卵が無いから、スーパーで買ってくるものリストに
- 麦茶
- レタス
- 卵
と書き、その通りに買い物をしてくることと大して変わりは無い。
それが何の得だというのか? ただ、時がたって 私たちのおこないのすべてが生んだ盲目の刻印を、自分で半ば確認することが その形跡をしっかりと辿るかもしれない。
それってなんか得? 時間が経てば、そうやって自分のやってきた形跡を自分で確認することが出来るだろうけどね。
だけど、私たちの死が始まるあの青ざめた午後に、それがいったい何であったかを告白しても、何の慰めにもならない、
ただ、死ぬときにそれなんか意味ある?
なぜならそんなことは一人の人に一度だけ、 しかも死にゆく者にだけ意味のあることだから
死ぬ一瞬にだけ意味があることでしか無いよねー
……という感じに読める。
これは詩なので、こういうテキスト作品なのである。それ以上の意味は、受け取る人次第というものであり、なんとなくこれだけ読むと、うーん虚無。人生何やっても虚無?みたいな感じ?とも読めるかもしれないが、ローティはこの本の中で、「ラーキンの詩の面白さと力強さは、詩と哲学の反目を、つまり偶然性を承認することで自己創造を達成しようとする努力と、偶然性を超越することで普遍性を達成しようとする努力のあいだにある緊張関係を、思い起こさせてくれる点にある。」と書いている。
強い詩人
まぁ、そのあたりの話が事細かく著では書かれており、ここではごく概略をかいつまんで書いているに過ぎないが、これがワタシ、Takazudoにとってもなるほど!と感じた部分であった。
元々DTMをしてレーベルにトラックを送っていたTakazudoという人間。この者がこのトラックメイキングを続け、あれこれ探求し、思うようなトラックを作れるようになったとして。そうやって自分史を辿ることは出来るものの、そうやって死に臨めば、それで満足なものなのかな?という自己問答みたいなもの。
この例は色々なことに置き換えが可能なように思われる。そう、例えばXやYouTubeでのいいね数が自分の中での「良いモノ」の指標になっていたり、自分の中で曖昧なゴールがあり、そのためにひたすら機材を買っては売るを繰り返したりしつつ音楽をやる。その先にあるゴールとは何なのか? そんなの個人の自由やろって感じでもあり、そういったクリエイティブや行為を否定するわけでは無いが、ここまでの自分の経緯とも相まって、あっ、そうか、結果じゃ無くて楽器をいじっているそのこと自体を楽しむということが、ストレートに音楽をやるってことなんじゃん?というような気付きを得たのだった。
なお、ローティはこの詩の解説の中で以下のようにも書いている。
しかし、以上のことは単純に、人は自分の作品が失われたり無視されたりすることを恐れるのだ、といっているのではない。というのもこの恐れは、たとえ作品が保存され、認められていたとしても、そこに他と異なるものを誰も見いださないのではないか、という恐れと混じり合っているからである。(中略)
人が創造したもの、そして人の自己は、良かれ悪しかれなじみの類型の実例に過ぎなくなってしまうだろう。以上のことをハロルド・ブルームは、「影響を受けることについて強い詩人がいだく不安」「自らがたんなるコピーやレプリカにすぎないことに気付くという、強い詩人の恐れ」と呼んでいる。(P.55)
あなたがもし音楽を始めようかと思い、何かしてみたら、誰かのまねごとのようなものから始まるだろう。高い確率で。だが音楽家を続けていく限り、このまねごとのような行為はいかがなものか?と問答し続けるかもしれない。しかし音楽家でいる以上、そういう不安を抱きながら、音楽を続けていく。これがここで言われている「強い詩人」と言えるだろう。
そういう視点を持ちながら最初のラーキンの詩を読むとまた面白い。死が来れば何か意味があることなのか?それは。ただ、そうであっても詩人であることを続けているのが、詩人というたぐいの人間なわけである。
ローティはこの問題に対し、「哲学者になれっ!」と説いている。
非連続性を堅持するよりむしろ連続性を見いだすことによってのみ、人は安らぎを得ることが出来る(P.56)
と。今の私が私の感覚で創作しているのは、自分の生まれた、生きてきた環境による偶然性がある。そのランダムな偶然性の檻から抜け出すことを主眼にするよりか、むしろ偶然性を受け入れよ、と。
この偶然性と言う言葉。これはこの著で大きなテーマの一つなのだが、ズバリモジュラーシンセにも結構当てはめて考えやすいトピックのように思われる。モジュラーシンセって結構、偶然性コントロール楽器な側面ってあるんですよね。でも偶然性ということで言えば、今の自分の趣向自体も偶然性の一つであるとも考えられる。そのランダムさと普遍的なものを目指す気持ちの間のどこかというのが、創作かもしれませんねって自分は理解した。
偶然性ということで言えば、そう、例えば何かしら大ヒットする音楽だったりって、なんかすごいいい感じのこれはなんだろうって突っ込んで考えてみると、これまでの流れを汲んだ上での何かだったりすることってありませんか? 多くは聞いたことのあるコピー品である中で、何か時代の流れや感覚を捉えて、そのうまいスキマに入ってきたような……。そういうのってここで説明されていることな気がするんですよね。
何か自分で作ったものが、他人にどう感じられるかはコントロールしようが無く、他人の判断に委ねるしか無いですから。ただし、良いと評価されるものは、何かしら大きな時代みたいな連続性の中にあるものであると、人々に感じさせられるもの……なのかもしんないですね。
ま、そんなわけで結論としては、モジュラーシンセ楽しみましょうってことです。なんかよくわからん音出して楽しみましょう。そして触りつつ理解していけばそれで良かろうと。よくわからなくてもそれでいい!と言うより、いや、そうする以外に出来ることが何かあるんですか? なんか曲作ったりするだけがゴールでも無いよ!って感じです。
ローティが気になった方。こちらで解説して下さっている動画がオススメです。ここまで読んで下さった方は是非是非。
おしまい。